戦いが終わって、俺たちはそれぞれの生活に戻る事になった。
当然のことだ。
俺たちははまだ未成年で、鎧を脱げばただの学生なのだ。
日本の高校に進学するかどうか、随分迷った。進学しても、何ひとつ学ぶことはないのは明白だったからだ。それでも、地元の高校に入学したのは、場所は離れていても、遼たちと同じ道を歩みたかったという密かな願いを叶えたかったのかもしれない。
しかしやはり、日本の高校は俺に合わなかったようだ。
4人と出会ってから人前で装うことをしなくなった俺は、明らかに周りから浮いていた。幼い頃に言われた「人を見下ろしたような奴」という噂も聞いた。それでも、珍妙なものに対する好奇心も手伝って声をかけてくれる友人もささやかながら居た事はいた。だから、俺は彼らには出来る限り本当のことを言ったし、相手の言う事も理解しようと努力した。
そう、「努力」だったのだ。
遼達の前では自然に出来ていた事が、努力しなければならないという状況に、俺は時間の経過とともに辟易とした。いや、それ以上に、相手に対して、物事に対して「本気」になれない時間が空疎に思えた。
そういった事が積み重なって、俺は結局、高校2年の夏休み、親父の出張に着いてゆく形で日本を去った。
その事を誰にも告げなかったのは、引き止められるのが怖かったのだ。理由を曝けることが自らの幼児性を暴くようで情けなかったのだ。
アメリカの研究室の気風は俺に合っていた。
下らない世間話も、昨日のドラマの話もしなくてもいい。それぞれが没頭している研究分野の情報交換が他者とのコミュニケーションだった。俺はそこで、情報文化の可能性と未来を、技術面と歴史面から検証することに没頭していた。
情報、それは文字文化よりも古い口承文化の時代から常に人と共にあるもの。情報文化の研究とは、とりもなおさず、正史の史書に頼らない地球規模での歴史と未来を俯瞰する作業だった。
もちろん、研究だけをしていただけではない。
人間としてのコミュニケーションもあった。
アメリカに居る間に、三度、女性から告白され、最短一週間、最長三ヶ月でふられた。三人から。
どの女性ともちゃんと夜を共にしたし、デートもしたが、最後は「トウマの中には別の人がいる」というのだ。俺は心当たりは全くなかったので全力で否定したが、彼女たちは一様に納得することなく、俺から離れて行った。そして、俺もそのことを寂しいと感じなかった。思えばそこで、怒りだったり悲しみだったりを覚えているのならそれは俺が本気で相手を想っている証拠だ。そういう気持ちがなかったのは、つまり、彼女たちがいうように俺は本気ではなかったのだ。
「風姿花伝」の研究の為に日本に戻って来た時、一応、ナスティにだけは連絡を入れた。何もいわずにみんなの前から姿を消した事に多少の後ろめたさを感じていて、それでもナスティなら咎めることはないと思ったからだ。
予想通り、ナスティは前と変わらず柔らかな物腰で俺の現状を受け入れてくれ、しばらくしたら皆と会いましょうね、と言ってくれた。
その静かな優しさに俺は深く胸をつかれた。
それから、年が明けて春の始め、伸から電話があった。
吃驚したと言う以上に、俺は怖かった。
伸はきっとまた、染み込む様に俺の内側に入ってくる。どんなに壁を作ろうとしても、彼はそれをすり抜け俺を無防備にさせてしまうのだ。
「元気だったかい、当麻。ちゃんとご飯は食べてる?」
ごくごく普通のありふれた言葉。
その飾らない言葉に、俺は全身を切られるような痛みを覚えて、しばらく返事を返す事ができなかった。
お袋やナスティ、そしてアメリカ時代の友人達と電話をした時にもこんな大きな波に攫われるような思いはした事がなかった。
9年前、若気の至りで突き動かされた様に、伸をプラットフォームで抱きしめ口付けしてしまったことが思い出されて、そしてその感覚すらリアルに蘇って、俺は突然、熱病に冒された様に身体中が熱く火照っているのを感じた。
その一方で、いろいろな思いが交錯した。
伸は、今、何をしているのか。何処で暮らしているのか。遼達とは連絡をとっているのだろうか。そして……結婚しているのだろうか。
そんな状態だったから、ろくに言葉も出てこず、俺は伸の尋ねられるままにぽつぽつと返事を返すしかなかった。
つまり、俺は伸を怖いと想いながら渇望しているのだ。
出会った時から。
でも、その気持ちは幻想でしかない「恋愛」という言葉よりも強烈な感情を伴っているのは事実だし、かといって、遼や秀に感じる気心の知れた仲間に対する「信頼」というにはやはり、言葉の意味が違いすぎる。
言語化されない感情を、俺自身が納得するには難し過ぎた。
いつの間にか、伸は眠りに落ちていたようだった。
規則正しい寝息が、腕の中から聞こえてくる。
俺は幼い時から「対幻想」というものに敏感に反応し、その幻想に染まらないように、というよりもそれから逃げる様に生きて来た。だから普通の人が持っているような「誰かと一緒にいれば幸せ」という幻想は俺の中には皆無のはずだ。
それでも俺は、伸とこうやって過ごす時間が幸せだと思う。
戦いの時、そのやさしさの中で微睡みたいという夢が、偶然にもこのような形で叶ってしまった事に感謝をしている。
それは、幻想ではなく俺の中の真実。
そんな日々を過ごしている中で、ふと気付いたのだ。対幻想の中で生きていると思っていたその他大勢の人たちも、ただ単純に誰かと過ごすことに満ち足りたものを感じているだけではないかと。対幻想という理屈を越えたところで誰かと暮らしているのではないかと。
「自己ひとりでは少な過ぎるが、自己と他者ふたりでは多すぎるのだ。」
俺がアメリカのラボに居た頃に友人から借りた本に掲載されていた女性思想家の言葉だ。
1985年にダナ・ハラウェイが発表した『サイボーグ宣言』、ポスト・ジェンダーワールドを巡るその思想体系と言葉に俺は強烈に陶酔していた。自己と他者と二人では多過ぎる、だからこそ、俺は一人でいいのだと。
でも今は、その言葉に多少、疑問を抱いている。
今、この瞬間、伸と一緒に過ごす時間を「多過ぎる」と思えないのだ。
ダナ・ハラウェイの論説を否定する訳ではない。サイボーグ宣言の内容は時代を再構築する上で今でも俺の中で金字塔としてあるのだ。
その一方で、俺は今、このひと時、満ち足りている。
現実世界と理論世界のギャップ。
それはいつも、伸を前にした俺を戸惑わせ、赤子のように無力にさせるのだ。
だがその矛盾からも、今回の再会で解放されるような気がしている。
近いうちに、俺は自分自身と向き合い、俺自身と伸に対して答えを出す、そんな予感がする。
2010.09.21 脱稿
柴誕です……いかがでしょう(汗 当麻モノローグは是非、竹村さんの声でお楽しみください。そんなの絶対ありえねえよ!な設定とか、いろいろありますがファンタジイということでお許しください。智の心は難しいですね(え)何度も言いますがあくまでもフィクションですから!書き手の体験談とかありま……せんヨ。多分。その他いろいろはブログにて。

