おやすみを言えない君。
当麻はおやすみを言わない。
突然始まった共同生活で同室になった当麻は、入眠剤代わりに僕を抱いて眠る。
長い腕に抱き込まれ、ひんやりとした体温が体越しに伝わってくると、僕は当麻にだけ聞こえるように「おやすみ」と声をかける。
でも、当麻は返事をしない。
長い腕に力をこめて相づちを打つだけだ。
最初の数日は、当麻がただ面倒くさがっているだけだと思っていたけれど、なんとなく気になって、尋ねてみた。
「ねえ、当麻。君はどうして『おやすみ』の返事をしてくれないんだい?」
僕を抱き込む当麻の長い腕に、いつもより強い力がこめられてびっくりした。
「言えなくなるだろ。」
「え?」
耳元で素っ気なく返される当麻の言葉に、僕は不安になった。もしかしたら、聞いちゃいけないことだったのかもしれない。
「この事件が終わったら、俺たちはまた元の生活に戻るだろ。そうしたら、言えなくなるじゃないか。」
当麻の言葉に、僕は自分の配慮の足りなさに気付き、唇を噛み締めた。
……そうだった。小さい時から一人で暮らして来た当麻には、毎日『おやすみ』を言える人がいなかったんだ。僕がいつも、母さんや姉さんに言っていた感覚は、当麻にはないんだ。本当に小さい頃には、きっとお母さんが側にいたのだと思うけど、おそらくはそのお母さんにも『おやすみ』を言えなくなった時があったんだ。幼い頃に。
当麻はいつも、未来を見ている。現在は、未来の起点に過ぎないとまで思っている節もある。
それは、当麻の個性だし、長所でもあるけれど、だからこそ、軍師足り得たのだけれど、こういう場面では、ただ訪れる真実を前に、術無く立ち尽くし、頑に拒否する原因になってしまう。
この事件が終われば、僕たちはそれぞれがまた、一人の大人としての生活に戻る。
こうして、当麻が僕と一緒に眠ることもなくなる。おやすみの挨拶を交わすこともなくなるというのは、やがてやってくる真実で、それは、時の流れとともに、人も、取り囲む状況も「変わる」現象の一つにしか過ぎないのだけれど。
当麻自身は認めたがらない、彼の無意識の世界で、『おやすみ』が言えなくなるその瞬間を怖がっている。
でも、それは当麻自身に咎がある訳じゃないから、僕は当麻に『おやすみ』は強要できない。
「じゃあ、その時は、僕が当麻の携帯におやすみメールを入れてあげるよ。君の寝る時間は分からないからね。あ、でも、当麻は携帯のメール、持ってないって言ってたよね。」
「……持ってるよ。ただ、日本の若い奴は無駄なメールを寄越すから、教えないだけだ。」
こういう時、当麻の腕の中にいるのに、その存在が僕とは遠い世界にいる様に感じてしまう。
携帯で仕事の話をしている時は英語だし、見つめているパソコンの画面は、僕が知っているパソコンの画面と全く違う作りだ。自作OSだ、なんて教えられたけど、全く理解できなかった。
僕が住んでいるやわらかい世界とはかけ離れた、0と1のソリッドな世界。それが、当麻が居るところ。僕が行けないところ。
翌日、昼ご飯の準備をしていると、携帯にメールが入った。
見た事もない「@i.softbank.jp」メールサーバーからだった。
件名もなく、ただ本文だけがあった。
「日本在住の奴には教えるな。」
その夜も、僕は当麻の腕の中で「おやすみ」を言った。
すると、よく耳を澄まさないと聞き取れないくらい小さな小さな声で、当麻が「おやすみ」と返してくれたので、僕は嬉しくなって、その腕を胸元に引き寄せて眠った。
そして僕は、広い宇宙に浮かぶ夢を見た。
2010.03.06 脱稿
毛利さんお誕生日おめでとうSSSです。でも、得したのは当麻ですね(笑)当麻がiPhoneなのは、林檎ユーザーではなく、単にアプリを開発して儲けているからです。そういうわけで、明日はオンリーですね。楽しみですvv

