それから私は、遼の生活に迷惑がかからない程度に、定期的に電話やメールで連絡を取り合った。
内容はたわいもないことだ。学校生活や互いの進路の事、時には全国一斉模試の点数を教え合い、笑い合ったりもした。生まれて初めて得た、ささやかで満ち足りた日常。竹刀を振る時の緊張感は、私を、己自身を見つめる静謐な境地へと導いてくれるが、それでも得られないものがあることを知ってしまった。私はいつの間にか貪欲になっていた。剣の道だけではもたらされない何か。それは、遼と会話を楽しむことで与えられる安堵感だ。ただの一人の人間であることの安らぎを、遼は言葉ではなく、言葉に込められた想いで教えてくれた。
学生という自由のきかない身分で、私は長期休暇を使って、年に二度は遼の家に遊びに行った。その際に、私は故意に胴着と竹刀を持たずに旅立った。
高校三年生の春休みだ。眠りに落ちる前の会話で、遼が呟く様に言った。
「子供って、未来の塊みたいなもんだよな。」
丁度、私も遼も進学の選択を迫られている時期で、それぞれに迷っている時期だった。
私は遼のその一言で、教職の道を選び、また遼も後を追うように保育士の道を選んだ。
この件に関して、家の者は良い顔をしなかった。特に祖父は私に期待していた分、私が剣以外のものに興味を示していることが気に喰わなかったらしい。
ある朝、突然、誰もいない道場に呼び出され、まるで断罪するかのように言った。
「お前は弱くなった、眼から鋭さが消えた。」
私はそれを受け入れて、白状した。
この心に守るものなく、ただひたすら剣に振り回される生き方ではなく、一人の人間として、大切なものを守る為に剣を振るう生き方をしたいのです、それで弱くなるなら、もとより私は弱かったのです、と。
祖父は私をこれまで会った事のない他人を見るような目で見つめてから、無言で道場を後にした。それ以来、祖父は私を縛り付ける事をしなくなった。
互いに就職し一人暮らしを始めてからは、休暇を利用して実際に会う機会が増えた。
場所は交通の便の良い東京が多かった。
直接、面と向かって話すというのは電話とのそれとは違い、初めのうちは多少、面映い気もしたがそれもすぐに慣れた。
沈黙は、互いの心に想いを馳せる時間となり、無言の笑みは了解の証となった。
遼は出会った頃と比べて、ずいぶんと強くなった。
社会に出て、子供達の命を預かる仕事を得たからだろうか。少年の頃に良く見せた激情は姿を潜め、世界に対する無垢な愛情と、ただひたすら優しく人を温める炎だけが残った。
比べて私は、祖父の言う様に弱くなった。
剣の道を志すものとしては、失格であろう。
幼き頃より、剣以外の人にも物にも執着しない生き方こそが強い人間の証と教えられてきた私にとって、遼という存在を心の支えとする生き方は、他者を自分に内包させることでようやく立っていられる弱き者だ。
そんな私を、遼はあるがまま認め、そして言うのだ。「守ってくれるんだろう?」と。
恐らく、今の遼には守る者など必要ないのかもしれない。
それでも、遼が私に守って欲しい、というのは、つまり、私が守るものがいなくては強く有ることができないと知っているからだ。遼が意図して私に甘えてくるのは、彼が安らぎを求めている訳ではなく、私を安堵させるためなのだ。
遼がそれで納得するなら、私は弱くても構わない。守る者のない過去に戻る事はもうできない。
それでもただ一つ、真実として言えるのは、遼や私の友に誰かが危害を加えようとするならば、私は前にも増して強くなれる自信があるということだ。彼らを守る為なら、私は鬼神にでもなってみせよう。
「征士。」
思いに耽っていた征士は、名前を呼ばれ我に返った。
わずかに強さを失った夏の日射しの中、背後に子どもを連れた遼が不安そうに自らを覗き込んでいるのに気付いて、慌てていつもの無表情を取り戻した。
「どうした、遼。遊びすぎて腹でも減ったか。」
「ん、確かに腹減ったけど、それより前に。」
遼はそう言って、自分の後ろに隠れるようにしがみつく子どもを見た。
「この子、もう帰るってさ。おやつの時間かな。」
「この炎天下だ。あまり長く外にいるのも家族が心配だろう。」
いないはずの子ども家族を想像しながら、征士は簡潔に答える。
「じゃあ、行こうか。」
その言葉を合図に、子どもが遼の後ろから出て来て井の頭池にかかる七井橋へと歩き始めた。
続いて遼と征士がわずかに距離を保って後に続く。
七井橋のたもとで、子どもは小さく頷いた。まるで、ここでお別れだとでも言う様に。
遼は、その頭をぽんぽんと叩いて、また遊ぼうな、と声をかける。
にっこりと無邪気な笑みを浮かべて、子どもはもう一度遼の足下に甘える様に体をこすりつけると、軽快な動作で橋を駈けて行った。
「またなー!!」
はつらつとした声で手を振る遼の隣で、征士は子どもの正体を見た。
橋を駆け抜けるのはまだ小さな茶トラの仔猫。それは、橋を渡り終わると右手に回って池の北西にある朱色の社に駆け込み、気配を消した。そして次の瞬間、朱色の社から一条の光の筋が夏の青空に向かって立ち上り、一呼吸の間を置いて、消えた。そして、征士は事の顛末を全て理解した。
「また会えるといいな。」
無邪気に言う遼の体から、異界のものの気配が消えている事を確かめて征士は言った。
「遼、話がある。」
二人は公園近くのコンビニで、ビールと軽いスナック菓子を買って来て、木陰のベンチに腰を下ろした。
相変わらず、人の気配はなく、蝉の声だけが夏の世界を支配している。
一口、二口、ビールを飲みながら、話を切り出したのは征士の方だった。
「こういう事を遼に言うのは本意ではないのだが、」
一旦、言葉を置いて、隣の遼の顔を覗き込む。煌めきを宿した黒い瞳が、真っ直ぐに自分を見ていた。
「あの子どもは命あるものではなかった。昨日、遼が会ったという仔猫があの子どもだ。」
「分かってたよ。」
「……そうか。ならいい。」
征士はわずかにその口元に笑みを浮かべた。なんと遼らしいことか、と。
「でも、わからないのはどうしてこんな不思議な事が起きたかってことだよな。別に俺、伸や征士と違って、霊感も何もないんだから見られない可能性の方が高いのにさ。」
わずかな沈黙の後、征士は時を見計らったかの様にビールの缶をベンチに置いてから話し始めた。
「当麻にこの街の歴史を調べてもらったら、意外な事実が分かった。」
「意外?」
「この街は、東京大空襲以前に爆撃にあって大勢の死者が出ている。」
「なんだ……それ。」
明るい笑顔を一瞬に消して、遼は征士に目線だけでその先を促した。
「実際に被害があったのは、吉祥寺の周辺ではなく駅の北側の市役所周辺だったらしい。そこに、中島飛行機という当時は東洋最大の航空機メーカーの製作所があったそうだ。陸軍の一式戦闘機『隼』の設計なども手がけている最重要軍需拠点だ。敵国にすればそこを潰せば補給力が経てると思ったのだろうな。」
「じゃあ、あの子は……。」
「おそらく、その被害に巻き込まれてしまった仔猫だろう。遼には見えなかったかもしれないが、私には橋を駈けてゆく仔猫の姿と、弁財天の社から浄化される魂を見た。これは想像なのだが、あの生まれて間もない仔猫は自らが死んだと自覚せぬまま、今まで来てしまったのかもしれない。そして弁財天の神通力を得て、現世に姿を得た。この時期は彼岸と此岸が近くなる。あの仔猫は彼岸に旅立つ前にただ遊びたかったんだろう。」
蝉時雨が止んだ。二人は黙って缶ビールに口付ける。
「俺、ちゃんと遊んでやれたかな。」
「大丈夫だ、浄化されたということは、魂が満ち足りたからだ。」
征士は瞼を閉じて、先程見た一条の光を思い出していた。遼に救われるのは人だけではないのだ。
「そういや、今日は終戦の日だったなぁ。」
思い出したように言う遼の隣で、征士はほんの少し口の端をあげて続けた。
「遼の誕生日でもあるな。」
「そう、今は少なくなったけど、俺の誕生日の時期には必ず『戦争は惨いものです』っていうテレビ番組が流れてた。だから無意識に戦争はいけないことなんだって思ってたら、自分自身が戦う状況に置かれた。あの頃は阿羅醐を倒して妖邪を滅ぼすことが正しいって思ってたけど、大人になってから時折、思うんだ。あれで良かったのかなって。」
ビールを口に運ぶ手をとめて、征士は驚いた様に遼を見た。
遼が、あの戦いの後、それについて自らの想いを口にするのは初めてだったからだ。
「魔将だって人間だっただろ。それを思うと、もしかしたら阿羅醐も人間だったんじゃないかと思ってさ。だって、鎧って人が纏うものじゃないか。それに、俺が阿羅醐を仁の心で封じた時間違いなく『仁の心を否定する』心があった。鎧を纏って心があるなら阿羅醐も俺たちと変わらない。ただ目指すものが違ってただけじゃないかと思う。なら、倒すんじゃなく、和平を結ぶとか他にも方法があったはずなんだよ。けれど俺たちは阿羅醐を倒して妖邪界を『滅ぼした』。それって、本当に正義だったのかな。でも、あの時の俺たちは戦うことで精一杯だった。仲間を守ることが大事だった。だから思うんだ。戦争は悪いってみんな言うけれど、人に対する憎悪の気持ちから起こる戦争もその裏側には必ず何かどんな形であれ、信じるところや愛するものがあるんだって。それを否定したら、俺たちは自分たちが守った人間世界そのものを否定することになる。人を愛することと憎むことは切り離せないようになってるんだよ、多分。その中で最善の選択をするのが、きっと人間に与えられた宿題なんだ。」
胸につかえていた何かを吐き出すように遼は言い切ると、彼にしては珍しく陰気な溜め息を一つついた。
「征士、肩貸して。」
言い終えると同時に遼は征士の肩に、頭をことんと乗せる。
征士は、自分より平熱が一度高いその体温を汗ばんだ腕ごしに感じながら、遼から溢れ揺らめく緋色の美しい炎に魅入っていた。それは、夏が見せる幻。
「でもさ、どんなに綺麗なこと言ったって大切な人を失うのは辛いよな。だから、俺は自分の誕生日があんまり好きじゃないんだ。」
終
2010.0709 脱稿
遼誕です。なんだかこう、意図せずいろいろ思い入れのあるものになってしまいました。これまでで書いた中で、一番時間のかかった作品でした。(一話を書く期間が)トップページの「征遼」をこの作品をもって「征士と遼(仲良し)」に変更したいと思います。本格的に話が始まる前に自分の中の征士と遼のイメージが掴めて良かったです。その他呟きはブログにて。

