虹の子ども

 虹の子ども



 リビングの時計が二十五時を示していた。
 当麻はノートパソコンから目をあげて、疲れた肩と背中を伸ばす為にぐっと上半身を伸ばす。
 田無神社での一件以来、渡井の言う「現代の陰陽寮」という組織に何かすっきりしないものを感じ、方々に手を伸ばして探っていた。
 一時は手っ取り早く、気象庁かその上部の国土交通省のデータバンクに侵入することも考えたが、アメリカならともかく、流石にそれを日本で行うのは憚られた。
 大学の図書館にある文献も、当麻の知識の範疇を越えるものはなく、結論として「陰陽寮に関する古い文献は土御門家にある」ことになっている。そして、期待はしていなかったものの、デジタル空間に情報を求めたが、そこには陰陽道に関する知識の基礎資料や、それをモチーフにしたライトノベルやアニメのファンサイトが占めていた。
 古代から王権を支えて来た秘儀秘術を抱えている組織の情報が、そんなに簡単に手に入る訳もないか。
 まだ生まれて間もないデジタル空間にそれを求めた自分が滑稽で、当麻は苦い笑みを浮かべた。
 寝室に向かおうとノートパソコンを手に立ち上がった時、当麻はふと、ここ数日の伸の様子がいつもと違っていたことを思い出した。
 顔色が冴えない。いつものように家事をてきぱきとこなしているものの、その合間に浮かべる笑顔はほんの僅か、ぎこちない。軽口で誤摩化しながら、自分のおかずを遼や秀の皿に分けているのは、おそらく食欲が落ちているからなのだろう。さりげなく本人に問い詰めたら、「何でもないよ」と静かな表情でそれ以上の追求を拒まれた。
 伸はいつもそうだ。
 自分の中の痛みや哀しみに鈍感とも言えるほど無頓着だ。
 気付かないフリをしているのか、本当に気付いてないのか、溢れてしまうまで表に出す事はない。そして、そういった感情を露にする時も一人でいる事を願っている。
 そんな矜持の高い伸の心に踏み込む事を、俺はまだ許されていない。



 翌日の朝食のテーブルでも、伸は遼と秀の皿に、自分の分のサンドイッチを笑いながら取り分けた。
「なあ、伸。お前、どっか具合でも悪いんじゃね?」
 秀が伸を真っ直ぐに見て言った。伸は一瞬、その視線から逃れるようにわずかに顔を背けて、サンドイッチをわざとらしく手に取る。
「やだなぁ、秀。僕のどこが変なのかい?」
「最近、伸、あんまり食べてないよな。」
 秀の代わりに、遼が不安そうな表情で対面の席に座る伸の目を見る。諦めたように、伸は溜め息をついた。
「僕、そんなに分かりやすかったかな。」
「顔色が悪い。」
 伸の曖昧な逃げを許さないとでもいうように、征士がぴしりと言った。
 当麻が伸の横顔を覗き込むと、案の定、例のぎこちない笑みが浮かんでいる。
「征士は厳しいなぁ。まるで取り調べでも受けているみたいだね。白状するよ。確かにちょっと体がだるい。でもそれは、病気なんかじゃなくて、単に環境に慣れないせいだよ。」
「環境?」
 秀の訝しげな問いに、伸は続けた。
「僕はずっと海の側で暮らして来たからね。生きた水がないこの街は息苦しいんだ。」
「水なら裏の公園に大きな池があるじゃないか。」
「この街を愛している人には申し訳ないけど、裏の池の水はあまり生命力がないんだよ。水の力が循環していない。」
 その言葉に、伸を除く四人は言葉を失う。
 水滸を纏う彼は、水の体現者そのものだ。その本人が言うのなら間違いはないのだろう。
「生きた水、か。」
 何かを確かめるかのように、征士が呟く。
「でもよー、そんな綺麗な海なんて、こっから随分遠いぜ? 房総や伊豆の方あたりだと、まだなんとか伸の満足するような海があると思うけどさ。」
 俺は東京湾で十分だけどな、と付け足して、秀が笑う。
「分かってるよ。だから環境に慣れないんだって言ったじゃないか。慣れればきっと、なんともない事なんだ。」
 肩を竦めて、伸が四人を見遣る。本人が「なんともない事だ」と言うのなら、それ以上問い質しても無駄だ。
 当麻はふと、ある事を思い出して伸の横顔を覗き込んだ。
「おい、伸。お前の言う『生きている水』っていうのは、具体的にどんな水だ?」
 小学校の九九でも尋ねられたような半ば呆れ顔で、伸は当麻の方を向いた。
「そりゃ、人の手が加えられていない自然の水だよ。命を育む海や、陸地を巡る川の流れ、地下から湧き出る生まれたての水、地球を巡って降り注ぐ雨。そういった命の循環の中にある水のこと。」
「なるほどな。」
 当麻は納得したように頷き、最後のサンドイッチを手に取った。
「お前、今日はこれから何か用事あるのか。」
「いや、特に。」
「じゃあ、朝飯喰ったら、お前の言う『生きている水』のある場所に行くぞ。」
 半ば強引な言葉に、伸は眉根を寄せてわずかに冷ややかな声で返した。
「遠出はダメだよ。今日の夕飯の当番は僕だから日のある内に帰って来なくちゃならない。」
「片道三十分だ。日が暮れるまでには帰って来られる。」
 当麻の自信溢れる表情に、伸は僅かに首を傾げた。



 吉祥寺駅から高尾方面に向かう中央線で三駅目、東小金井駅で伸と当麻は電車を降りた。
 駅に続く鄙びた商店街と住宅街を通り抜け、今はもう濃い緑のトンネルを作っている桜並木の坂を下りると、視界いっぱいに緑の森が広がる。
 坂を下りきった所で伸は呆然と立ち尽くし、まるで異界に紛れ込んだかのような不安な表情を浮かべて隣の同伴者に尋ねた。
「ここは……どこなんだい? こんなにはっきりと水が生まれる声がする。確か、僕らは駅を三つ通過しただけだよね。」
「そう。吉祥寺のゲストハウスから2キロ位しか離れていない場所さ。」
 得意げに当麻が言う。伸は目を閉じて深い呼吸をしながら、その声を聞いていた。
「ここは野川公園といって、名前の通り、野川という川が流れている。都内では珍しく自然が残っている場所だ。この川はハケと呼ばれる国分寺崖線の湧き水で出来ていて、水源の国分寺日立製作所中央研究室から多摩地区を横断して入間川や仙川と合流し、世田谷付近で多摩川に流れ込む。先史時代には……」
「分かった分かった! 解説はもういいから、早く公園に入ろう。」
 長くなりそうな当麻の蘊蓄から逃れるように、伸は緑の檻の中に駆けこんだ。


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