願い
「クロー、おやつの時間だよ〜。」
俺を呼ぶ、やさしい声が聞こえる。
『クロ』という名前は、この人間が俺につけた名前だ。
……ごめんね、他に、いい名前が思いつかなくて。
そう言って、彼は、やんわりと俺の頭を撫でてくれた。
かつて、人間が、これほどまでに俺に親しみを抱いてくれたことはなかった。崇められ、恐れられても、触れることはなかった。なのに、この人間は……全体的に色の薄い、まだ少年のような容姿の彼は……いとも簡単に俺をつかまえ、抱きしめた。俺には人間のような感情はないから、それがどういう意味なのかは分からない。ただ四肢が、ふんわりとあたたかくなったことだけを鮮明に覚えている。
俺は、彼の願いを知っている。
だから、ここにいるのだ。
生まれたときの記憶はない。
物心ついたころから、武蔵野に根付く深い緑の中で祀られている、古木の根方の洞(うろ)を住処にしていた。その木には質素な注連縄が一本だけ巡らされており、毎朝、森の付近に住まう人間たちが、お供え物を置いて行った。決してそれは、美味しくはなかったが、俺がそれを喰らい、皿が空いているのを見ると、人間は喜んだ。時折、姿を見せると、彼らは俺を「おきつねさま」と呼び、ひれ伏した。そのころの俺は、立派な体を持った、四歩足のただの狐だった。
なぜ彼ら人間が、俺のことを崇めるのか分からなかった。俺はその森に棲んでいるだけの、普通の狐だったのに。それでも健気に「おきつねさま」と呼び慕う彼らは、嫌いではなかった。毎日、供えられる飯と小さな魚と、酒。それらは時に豪勢になって、旬の野菜や果物が供えられることもあった。仲間の狐が十年と満たぬ間に死んでゆくのに、俺だけは死期が訪れることはなかった。
今、思うと、供えられた食べ物に、彼らの祈りが宿っていたのかもしれない。
それからどれくらい経ったころだろうか。
住処にしている森を残して、人間の住む世界が変わった。
草木に覆われていた平地は耕され、広い畑になった。人間の住む家は大きくなり、またその数も増えた。……お陰で、仲間の狐たちは住処を奪われたが、そのころはもう、俺は彼らの仲間に入れてもらえなかったので、ただ、自分に残された森でひっそりと暮らすしかなかった。
俺の住処の前にも、小さな社が作られた。木造の朱色の社に、毎朝、炊きたての飯と酒と塩と厚揚げが供えられた。そして、相変わらず人間は、俺のことを「おきつねさま」と呼び、崇めた。しかし、姿を見せると、一様に顔に恐怖をはり付かせ、逃げ出した。人間というものは、よく分からないものだ。なぜ、怖がるものを崇めるのか。人間は、嫌いではなかった。けれども、俺の姿を見て逃げ出す彼らを、好きになることもなかった。
いつの間にか、俺は、彼らの前に姿を晒すのを止めた。これ以上、彼らを遠いものとして感じたくなかった。
朱色の社ができて、十年も経ったころだろうか。
一人の女が、毎朝、社の掃除をして、供え物を置いて行くようになった。
その女の着物は、それまで社に来ていた人間よりも、ひどくボロく、薄汚れていた。あちこちにつぎはぎができて、体の大きさにもあっていない。袖も丈も短すぎて、人間の言葉で言えばつんつるてんの格好をしていた。黒く長い髪はぼさぼさで、髪を結ぶ紐もまた、汚れて黒ずんでいた。
そして何よりも、女は、盲(めしい)だった。
目が見えないせいで、社の掃除も、供え物を置くのにも、これまでの人間の倍以上の時間を費やした。にもかかわらず、その間、女はひどく楽しそうに、歌を口ずさんでいた。
……赤い鳥居のその奥に おきつねさまは 住まわれる
できたておいなり おそなえすれば
おきつねさまは わらうとさ ヨイヨイ
薄汚れた盲の女は、そんな調子で、いつも楽しそうだった。
その女が社を掃除するようになった一年目の春。桜の花が満開の時期だった。
掃除を終えた女は、社の前に座り込んで、見えぬ目を社の向こうにある桜の大木に向けて、言った。
「おきつねさま、桜が、見事ですねえ。わたしゃ、見えやしませんが、こう、胸が踊るんですよ。」
「おきつねさま」、そう呼ばれたのは、本当に久しぶりだった。女が社を掃除するようになってから、女以外の村の者は、誰もこの社に近付こうとはしなかった。薄々、人間が、自分の存在を疎んでいるらしきことも知っていたから、その一言は、ひどく懐かしく、心を揺さぶった。
そして何よりも、女が盲であることに俺は安堵していた。盲なら、俺の姿は見られまい。見られなければ、怖がられることもないだろう。
そう思い、俺は女の前に姿を現して、女に近付いた。
「ああ、おきつねさま!」
女は驚いたように声をあげた。
「そこにいらっしゃるんですか!」
驚いたのは俺も同じだった。盲の女に、なぜ、俺が見える?
「あたしのような者の前に、お姿をお見せになってよろしいのですか。とてもうれしゅうございます。」
くつろいでいた女は、慌てて俺の方に向かって正座をして頭を下げた。
「立派な黒い毛艶でございますなあ。やはり神様でいらっしゃる。どうか、この村をお守り下さい。そのために、わたしゃ、毎朝、お社を綺麗にしますので。」
その年の梅雨は、空梅雨だった。曇天の空は一滴の雨も零さず、じめじめと暑い日が続いた。その反動のように、夏は台風が武蔵野を何度も襲い、打ち付けるような激しい豪雨の日が続いた。
季節は巡り、秋。
収穫のその季節、村に恵みはもたらされなかった。実るはずの稲穂は枯れ落ち、主立った野菜はひからびた死骸のような姿を畑に晒していた。
それでも、女は欠かさず社に来て、掃除をし、炊きたての飯と塩と酒を持って来て供えた。ただ、その量はだんだんと少なくなっていた。また、女も、初めて見たころよりも、ずいぶんとやつれて、細くなっていた。
「なあ、おきつねさま。いらっしゃいますかあ?」
やたらと空が青い、秋のある日。
社の掃除を終えた女が、その前に正座をして、俺を呼んだ。
「もし、あたしがここに来られなくなっても、どうぞ、村をお守りくださいなあ。よろしくお願いします。本当に、本当によろしくお願いします。」
それが、俺の聞いた、盲の女の最後の言葉だった。
翌日から社には誰も来なくなった。
飯の入っていた皿にはハエがたかり、社はすぐに埃で薄汚くなった。もっとも、社がどうなろうが、俺にはどうでもよかったが。
ただ、あの盲の女がどうなったのか知りたかった。病かなにかで臥せってしまったのだろうか。そんな思いが過ると、女の「おきつねさま」という声が頭の中に響き、いてもたってもいられなくなって、村へ出てみた。
夕暮れ少し前、陽が落ちるすれすれの時間帯、人目を避けて向かった村では、誰一人として俺に気付く者はいなかった。俺が十分注意を払っていたせいでもあるが、うっかり出会っても、彼らは俺の存在に気付かなかった。人間には、もう、俺の姿は見えていなかったのだ。
その村で聞いた話では、盲の女は、口減らしに殺されたということだった。
空梅雨と台風に襲われた村に、冬を越すだけの食料はなかった。まともに働けない盲は、一番に切り捨てられたのだ。
心の奥底から、何かが突き上げて来る。
声に出せない慟哭。
女の、「おきつねさま」と呼ぶ声が何度も頭をこだました。
夜の闇が迫る畦道を、俺は駆け抜けて森に帰った。手入れをされなくなった社の前で、俺は立ち止り、そこに、女の幻を見た。
……もし、あたしがここに来られなくなっても、どうぞ、村をお守りくださいなあ。よろしくお願いします。
そう言って、女は笑うと、風にかき消されるように消えた。
お前を殺した村を、俺に守れというのか。それがお前の願いなのか。
俺には、人間というものが分からない。
そんな願いは、聞き届けられない。
どうして、俺から女を奪った人間を、守らなければならないのか。
俺の姿も見えぬようになった人間を、どう守れというのだ。
そして、俺は、その日の夜に、その森を離れて武蔵野の広野を彷徨うようになった。
風の噂では、村は「おきつねさまの怒りで」村人全員が餓死したそうだ。
それから、長い間、人間を見て来た。
総じて、人間は愚かだった。
人間をまとめる権力者は、いつも横暴で、民衆を労ることはなかった。
異国との戦いに、国中が一喜一憂し、馬鹿みたいに騒いだ。
金というものに支配され、生き物としての生き方を踏み外した。
……そして、誰一人として、俺の姿に気付くものはいなかった。
それでも。
心の片隅で、俺は探していた。
「おきつねさま」と呼んだ、あの純粋な、盲の女のような人間はいないのかと。
長く人間を観察しているうちに、気付いたのだ。
人間は、愚かであるのが本質なのだと。だから、あの村人を責めるわけにはいかなかったのだと。
俺は、女の願いを聞き届けられなかったことを、いつしか後悔するようになっていた。
だからもし、今度、女のように俺の姿を見つける者がいたら、絶対にその者の願いを聞き届けようと思ったのだ。
武蔵野の広野は、いつしか、鉄道が縦横無尽に走る都市へと姿を変えていた。人間が集まり、群れをなし、多くの家が建った。
開発される土地に反比例するかのように、俺の体は小さくなっていった。
もうこの身体の尽きる時なのだ、と直感で分かった。
だから俺は、覚悟を決めて、懐かしい、あの森のあった場所に帰るつもりだった。
その途中。
街の中で。
俺は見つけてしまったのだ。
あの女のように、清らかで強い願いを持つ者を。
人間の群れにいて、ひと際、清冽な光を放つ彼を。
……この人間の願いを果たすのが、俺の最後の役目だ。
「ねえ、クロ。君の誕生日はいつだい?」
彼の作ったケーキを食べていたその手を、俺は止めた。
今日は他の奴らは、用事とやらで外出して、彼が借り暮らしをしているこの家には、俺と彼だけだ。邪魔がいなくて、俺はすこぶる機嫌がいい。
「ずいぶんと昔だから、忘れた。」
「そっかあ。やっぱ白炎と同じで、長い間生きていると、わかんなくなっちゃうのかな?」
白炎か。あの、たまに姿を見せる、大きな獣。間違いなく俺より長生きしているあの虎は、悪い奴じゃないが、ちょっと苦手だ。
「そもそも、俺には生まれたときの記憶がないんだ。誕生日という考えは人間にしかないだろう?」
「あ、そうか。クロがそうやって人間の姿をしてるから、つい、僕たちと同じって考えちゃうね。」
彼はそう言って、ふわり、と笑うと、言葉を継いだ。
「でもね、誕生日って、あるといいと思うんだ。みんなでお祝いできるし、何よりも、クロが生まれなければ、僕はクロに出会えなかったんだよ。だから、生まれたことをお祝いする日があってもいいと思うな。」
「……そういう風に考えたこともなかった。」
「じゃあさ、今日を、クロの誕生日にしよう。」
彼は唐突にそう言って、子どもをあやすように俺の頭を撫でた。
「今日はね、九月六日。語呂合わせで、『クロ』なんだよね。どう?」
微笑みながら、彼は相変わらず、俺の頭を撫でている。普通に考えると、俺の方がずいぶんと年上なんだがな。結構、これが嫌じゃない。
「なんだか、すごく単純だ。」
「こういうのは、単純な方がいいんだよ。覚えやすいじゃない?」
「……伸がそう言うなら、それでいい。」
「じゃあ、決まりだね。今晩は、クロの誕生会をしよう。あとで一緒に、買い出しに行こうね。」
人間とは、愚かで弱くて、そして時にやさしいのだと、ここに来てから思うようになった。
崇められもせず、恐れられもせず、見過ごされもせず。ただ、俺の存在をそのままに認めてくれる。おかげで、俺自身が獣であることを忘れることがある瞬間さえある。
俺は永い時を、生きて来た。
その時間の中で、今が、一番、心地よく、時に心苦しい。
獣である俺は、人間にはなれないのだ。
それでも俺は、自分の役割を決して忘れない。
彼の願いを聞き届け、果たすこと。
かつての俺ができなかったことを、この身が尽きる最後の瞬間までに、叶えなければならない。
意外な人(?)のハピバでした(笑) 書いてて「夏目友人帳みたいだな〜」なんて思ったことは秘密です。その他呟きはブログで。

