
金魚
城南大学文学部史学科助教授、羽柴当麻(三十二歳)という人物について彼を浅く知る者は「変人の横顔が天才とは彼のことを言うのだ」と説明するだろう。二十代の彼を知る者は「昔はすごい奴だった。彼はどうして変わってしまったのか」と嘆くだろう。そしてより深く知る者はおそらく、彼についてはコメントを避けるだろう。
鎧を脱いだ彼は、他の仲間と同じく日本のありきたりの高校に入学し、大阪の名門大学の文学部を首席で卒業したあと、城南大学大学院に入学した。そのころから日本の各地に飛び回り民俗学のフィールドワークを行い、二十七歳の時に学会誌に発表した「円環の邪馬台国幻想」で延々と続けられていた邪馬台国論争に終止符を打ち、翌年に発表した「神代文字の在処」で日本に漢字伝来以前にも文字が存在していたことを証明した。日本民族学会は彼を「柳田邦男の再来」と嫉妬半分、歴史を覆した若い才能を歓迎した……はずだった。
ところが、その二論を発表したあと、彼は全く、学会の表舞台から姿を消してしまい、今は大学の研究室にひきこもり城南大学の史学科の学生相手に週三度教鞭をとるのみである。その上学生の間では『羽柴教授』に関して妙な噂があった。
『研究室に住んでいる』『トイレで釣りをしていた』『真夜中に呪文を唱えながらグラウンドに魔法陣を描いていた』『教授の授業には人間以外の何かがいる』などなど。外部の人間が聞けば呆れ返ってしまうような噂も、しかし本物の『羽柴教授』を目の前にすると、納得してしまうのである。
いつ剃ったのかわからない無精髭、何を考えているのか分からない不気味な目つき、頭のあちこちに飛び出ているのはくせ毛なのか寝癖なのかわからない。服はいつもくたびれたジーンズにシャツかジャージ、別に科学者でもないのに白衣をまとっていて、それが唯一、彼が不審者ではないことを物語っていた。
そんな彼にも友人がいない訳ではない。
鎧をまとって戦った仲間との信頼は薄れたわけではなく、厳然としてそこにあったが、研究室に引きこもり始めてから当麻は一人以外との連絡を面倒くさがるようになった、いや、正確には研究に没頭して優先順位が低くなってしまったのだ。そんな彼と唯一、週一度の電話をするのは伸だった。伸は、戦いのあと、萩の実家に戻り地元の大学を出て窯元を継ぎつつ、地元の高名な日本画家に弟子入りして日本画家を目指していた。当麻に電話をするのは、かつての仲間が研究に没頭するあまり人としての道を踏み外さないようにとの彼らしい気遣いからだった。
「当麻、こんばんは。元気にしてたかい?」
伸からの電話は大体、土曜日の夜八時ごろと決まっている。電話の嫌いな当麻は伸以外からの連絡には留守番電話で対応するが、この時間の携帯の着信には相手を確認することなく通話ボタンを押す。向こうからいつものやわらかい声が届いた。
「ああ、変わりない。」
ぼそり、と相変わらず何を考えているのか分からない低い声で答えた。
「今日は何時に起きた?」
「今日? ああ、多分、昼過ぎだろうな。いや、もう少し遅いかもしれん。三時、四時、まあ、それくらいだ。昨日の夜は頭が冴え過ぎて眠れなくてな。一晩文献を読んでたんだ。」
「何の文献?」
「言霊呪術というやつだ。」
しばらく間があって、「ええと、ごめん、それは僕にはちょっと難しいかな」と返答があったあと、伸が続けた。
「ご飯は食べた?」
「さっき、珈琲とサンドウィッチを食べた。」
「野菜が少ないね。いつまでも若くないんだから少しは健康に気を付けなよ。」
恒例のお説教が始まりかけて、当麻はいそいそと伸自身の話題へ水を向ける。
「お前の方はどうなんだ?」
「うん、元気でやってるよ。先日から院展の作品を描いている。」
「何を描いているんだ?」
「琉金だよ。今、目の前で泳いでる。」
当麻は片手でパソコンのキーボードを弄って琉金の画像を検索した。朱色の卵形の体に同じ色の長い背びれや尾ひれがひらひらと舞う金魚の姿がモニターにいくつも映った。
「モデルのために飼い始めたんだけど、すごく可愛いよ。当麻の研究室では飼えないかな。君、ほとんど研究室から出ないんだろう? だったら、せめて近くに生き物を置くと少しは気分が変わるよ。飼うのにそんなに手間はかからないから、できるんだったら飼ってごらんよ。」
「金魚、なあ……」
あいまいな言葉で濁して、当麻はうむと唸った。
それから半時ほど、二人は互いの近況を報告しあって通話を切った。
当麻の研究室の一角に水槽と一匹の琉金がやってきたのはその三日後の昼だった。薄暗い研究室の中にうっすらとモーター音を響かせて存在を主張している水槽とは裏腹に、その中に住まう琉金は鮮やかな朱にもかかわらず、ひどくはかなげだった。
研究室の椅子に座り当麻は腕を組んで、その金魚を一時間ほども見つめていた。それから大きく溜め息を吐いた。
「どう見てもただの金魚だな。いっこうに喋る気配もない。これじゃあ八百比丘尼になれそうもないな。伸も、なんでこんな金魚がいいなんて言うんだ? 水滸のあいつにとっちゃ、魚はみんな可愛いんじゃないのか。」
当麻の視線の先で金魚が舞った。朱を水に溶かして流れを描くように美しく泳ぐ。それから、水面へ顔を出して口をぱくぱくと動かした。
「ん? えさか?」
よくわからないが、とぼそぼそと呟いて、当麻は一緒に届いた餌の袋を開けて黒い粒を水槽の水面に投げ入れた。金魚はぱくりぱくりとそれをほおばる。当麻はその様子を見て、すっと目を細めた。奇妙な色が、そこに浮かんでいた。
夕方に仮眠をとって、遅い夕飯を食べながら当麻は気づいたように水槽を見た。薄暗い研究室には似合わない目が覚めるほどの綺麗な朱色が舞っている。時折、それは当麻の方に寄って来て何かを伝えようとしているようだった。
「お前も夕飯か?」
金魚は答えない。ひらりと朱の背びれを水に流して舞う。
餌の袋を持って水槽に近付くと、ひらりひらり長い尾を泳がせて水の中で舞い遊んでいた金魚はすっと当麻に近付いて来て、水槽の硝子越しに自らの美しさを見せるように一度、優雅に舞った。
「なるほど、お前、一応、考える力はあるんだな? 俺が餌を与える、つまりお前の生死を握っていることを分かっているんだな?」
返事はない。金魚は餌を求めるように水面に上がって待っている。当麻が餌を与えると、やはりぱくりぱくりとほおばって、満足げに水槽の底に丸い体を沈めたあと、ふわふわと水に体を預けていた。
餌袋を水槽の隣に置いて、当麻は椅子に体を沈めてから腕を組み、水槽の中の艶やかな朱色の金魚を眺めていた。時折、右の耳の下を掻く。考える時の癖だ。視線の先の金魚はそんな当麻の視線を気にすることなく、水の庭に朱を流すようにゆるやかに泳いでいる。
小一時間も過ぎた頃だろうか。当麻はおもむろに立ち上がって水槽の前に立った。
「俺は羽柴当麻という。民俗学の研究をしている。今はもう日本の民俗学の派閥に加わるのが面倒で学会にも顔を出さないが、研究を怠っているわけじゃないぞ。今は日本の言霊呪術を研究している。言霊呪術の詳細は、金魚のお前に話しても分からないから説明は省く。これで俺の自己紹介は終わりだ。」
金魚が長い尾びれを漂わせてふわりと浮かんだあと、当麻の言葉を理解したかのように一度、水槽をくるりと舞った。
「確認しておくがお前は俺に飼われている。お前の所有権は俺にある。その上、お前には理解力もあるみたいだから名前をつけようと思うが異議はあるか?」
何を考えているのかわからない当麻の昏い目が、獲物を狙うように鋭さを帯びる。そんな気配に気づくこともなく、金魚はのんびりと朱色をまといながら水中を泳いでいる。
「異議なしと認めたので、名前を付ける。名前というのは、相手を縛るものだ。お前が俺から名前を与えられるということは、俺の言うことに絶対に従わなくてはならないということだ。言霊呪術の基本だな。」
言って、当麻は水槽に近付くと、硝子に手をあてて朱色の魚を紺色の眼光で射た。
「お前の名前は『伸』だ。」
翌日、当麻は午後の講義を一コマ教え終えて、一度、教員室に顔を出したあと研究室に戻った。
これまで一度も、帰って来て迎えるもののなかった研究室に生き物の気配を感じて当麻は部屋に入るのを躊躇った。それが金魚の存在だと気づくまで五秒かかった。
「ああ、『伸』、お前か。」
当麻の口元が嬉しそうに歪む。目にはねっとりといびつな光がある。水槽に近付いて、朱色の魚を見下ろした。
金魚は昨日と変わらず、何が楽しいのかゆらゆらとひれを水に漂わせて舞っている。当麻に気づいて、水槽の硝子に近寄ってきた。
「いい子だ、『伸』。餌をやろう。」
言うと、当麻は水槽の隣に置いてある銀色の餌袋から餌を取り出して、水面にぱらぱらと撒いた。金魚はぱくり、ぱくりと小さな口をひらいて器用に餌を体内におさめてゆく。しばらく食べて満足したのか、今度は水底に降りてゆらゆらと背びれや尾びれを揺らしていた。
次回の講義の準備と、それからいくつかの文献を読みあさって当麻は少し疲れてベッド代わりのソファに横たわった。睡魔はすぐやってきた。ふと目が覚めると、日付が変わっていた。空腹を感じて研究室のある階の給湯室でお湯を湧かし、インスタントコーヒーをいれる。研究室に戻ると、昼に購買部で買ったまま封を開けていない菓子パンを鞄の中から取り出して口に突っ込んで珈琲で流し込んだ。
気が付くと、水槽の中で泳いでいた金魚が一度、当麻を見てひらりと舞った。
「ああ、『伸』、お前も餌か?」
マグカップを持ったまま、当麻は立ち上がり水槽に近付いた。
左手で餌袋に手を伸ばしかけて、当麻は目を細めた。片方だけ器用に唇をつり上げ喉を鳴らして笑う。
「そうか、そういうことか。言霊呪術とはそういうことじゃないか。」
誰にも届かない奇妙な言葉は埃とともに研究室に埋もれた。
近付いて来た当麻に気づいた金魚が水槽の硝子越しに当麻を見ている。その姿を見て、当麻は言った。
「餌が欲しいか? そうだよな。お前は俺がここから餌を与えなければ死んでしまう。『伸』、餌が欲しければ俺の言うことに従え。お前は『伸』だ。だからその名の通り、体もまた『伸』になれ。そうすれば、餌をやろう。できなければお前は死ぬだけだ。」
そして当麻は全く興味を失ってしまったかのように餌袋を水槽の隣に放り出すと、文献の積み上がった机に向かった。
当麻が翌日、目覚めたのはずいぶん陽が高くなってからだった。ベッド代わりのソファでぼんやりと目を開けた当麻は腕時計を見た。午後二時だった。ひとつ、おおきな欠伸をしてざらりとした顎を触る。前に剃ったのはいつだっただろうとぼんやりと考えながら、いつもの研究室を眠気の去らない頭で見渡し……異変に気づいた。
水槽の中に、金魚がいなかった。
かわりに、人がいた。
森の奥深くに隠されて誰も見たことがないような深い深い透き通った大きな翠の瞳。春先の花が綻んでいるような小さな唇。淡雪のような白い肌。綿みたいにやわらかそうな胡桃色の髪。水中でしなやかに泳ぐ体には水浅葱色の着物をまとい艶やかな紅の帯で細い腰をきゅっと締めている。
『それ』は、じっと当麻を見ていた。
「……『伸』?」
どちらの名前を呼んだのか、当麻にも分からなかった。思わず、そう声が零れた。
ゆっくりと歩みをすすめて、水槽の前に立ち、屈んで翠の目と視線を合わせる。何度か瞼が動いて翠色が見え隠れしてから、口がぱくぱくと開いた。何かを喋っているらしい。当麻は水槽に耳をあてた。
「『とうま』。『えさ』。」
一瞬、間を置いてから、当麻は燻るような昏い愉悦の笑みを浮かべた。目元が変質的に緩んでいる。声もなく笑って、餌袋に手を伸ばす。
「いい子だ、『伸』。」
当麻は舌で上唇を舐めた。獲物を狙う視線を向けたまま、金魚に話しかける。
「お前は本当にいい子だ。」
そうして一粒、金魚の餌を水面に落とす。金魚だった『それ』は、ふわふわと水中を上がってぱくりと口にした。もう一粒落とすと、やはり同じ仕草で食べた。六粒も食べると腹が膨れたらしく、水浅葱の着物と長い紅の帯を水中にひらめかせて水槽の中程まで降りると、硝子に小さな手を当てて翠の目を当麻に向けたまま水中に漂っていた。
当麻はじっと翠の目を見ていた。間違いなく、金魚を飼うように勧めてくれた彼の瞳の色と同じだった。
その日、当麻は一週間ぶりに髭を剃り、頭を櫛で整えた。
いつ着替えたのかもわからなかったシャツを脱いで、研究室の奥からまっ白の新しいシャツを取り出してきた。くたびれたジーンズも丸めてゴミ箱へ入れて、昔、学会に出ていた時に使っていたズボンを履いた。
その日の午後の講義は羽柴ゼミの生徒だけの民俗学の専門授業だったが、当麻が教室に現れたとき、それが彼ら自身の先生であることに気づく生徒は誰もいなかった。
ゼミでの講義を終えた当麻は、その足で神田古書街へと向かった。世話になっている古本屋三件から、探していた本や文献が見つかったとの連絡が留守電に入っていたからだ。学会や学校では変人呼ばわりされている当麻だが古書街での評判は今も昔もすこぶる良い。年齢や身なりはともかく、注文した本や文献に対して金を出すことを惜しまず、何よりもそういった古いものに対する執拗なまでの愛情を持つ当麻に対して古書街の店主達は同類の匂いを嗅ぎ取っていた。一番付き合いの長い店主と小一時間の話をしてから研究室に戻る頃にはすっかり日は暮れていた。
研究室の扉をあけてすぐ、当麻は水槽に視線を向けた。ちゃんと、小さな『伸』はそこにいた。安堵して今日、買ってきた文献の束を机の上に放り出した。久しぶりのきちんとした身なりのせいだろうか、体がずいぶんと重く感じ、そのままソファに転がった。当麻の許可もなく意識は眠りに絡めとられた。
ふと何かの気配を感じて、当麻は目を覚ました。習慣で腕時計に目を遣る。午後十一時と少しを過ぎたころだった。のっそりと起き出して、気配の方へ目をやると、翠が見えた。
丸い大きな翠の目が、じっとこちらを見ている。
『伸』が、何かを言いたげに当麻を眺めていた。
「どうした?」
水槽に近付きながら、当麻が尋ねる。小さなさくらいろの口がぱくぱくと動いた。
「『とうま』。『えさ』。」
言われて当麻はようやく気づいた。講義の前に餌を与えてからもうずいぶんと時間が経つ。腹を空かせて当然かもしれない。動物を飼ったことのない当麻は、規則正しく動物に餌を与えるという経験がない。今、金魚が自ら申請しなければすっかり忘れていただろう。
「ああ、すまん。」
水槽の脇にある銀色の餌袋を取り出して、餌を一粒、水槽にいれた。『伸』は水面に浮上してぱくりと口におさめる。その艶やかな『伸』の姿を凝視していた当麻は、目を細めて濁った笑顔を浮かべた。餌袋からもう一粒、取り出した当麻は水槽にいれる直前で手を止めた。
金魚が驚いた様子でふわりと一度、水槽を巡ったあと、また水面に浮上して餌を求める。
当麻は、水槽の横の壁をコツコツと叩いた。気づいた金魚がやってきて、小さな手を硝子に貼付けて当麻を見た。
「いいか。お前は俺が餌をやらないと生きられない。お前はいい子だから俺に絶対に従わなくてはならないと言ったあの言葉を覚えているな?」
金魚は分かったような分からないような曖昧な表情を浮かべて小首を傾げた。
「今から、俺の真似をするんだ。そうすれば餌をやる。」
そうして、当麻は水槽の硝子に口付けた。視線だけで金魚を追う。戸惑いながらゆらゆらと揺れていた金魚は、すっと硝子越しに当麻に口付けた。
硝子から唇を離した当麻は、彼自身のこれまでの人生で一番満ち足りた表情を浮かべて餌袋を手に金魚に餌をやった。
それからしばらくは、当麻は大層、機嫌が良かった。研究室には『伸』がいたし、餌の度に小さな『伸』と口付けを交わした。餌のために規則正しい生活を送るようになり、毎朝髭をそり、身なりを整えた。大学内では、とうとう羽柴教授があっちの世界に行ってしまったのではないかともっぱらの噂だった。
しかし、当麻の満足は二週間ももたなかった。
目の前に『伸』がいるのに、声を聞くことも触れることも叶わない。硝子越しのキスは冷たく、おいしそうな唇とは裏腹だった。すべてがもどかしかった。もどかしいと思うと、余計に目の前の水槽の『伸』が、目について仕方なく、文献を読むどころではなかった。
さて、どうしたものか、と当麻は狭い研究室の中を何度か行ったり来たりしてはたと足を止めた。
すべての現象の根源を作った自分自身の発言をすっかり忘れていたのである。
金魚は最初、名前をつけた時、言霊呪術で自分に縛っている。故に、自分の言うことならば、必ず金魚は叶えなくてはならない。
目を細め、秘策をめぐらしていることがそのまま現れた笑顔を貼付けて、当麻は机の上のマグカップを持ち上げて一口、コーヒーを飲んだ。水槽に獲物を狩る喜びを浮かべた目をやり、口の端をつり上げる。丁度、食事のあとの『伸』は気持ち良さそうに長い紅の帯をたなびかせて水槽の中を泳いでいた。
「夢というのは、案外簡単に叶うもんだな。」
ぼそりと言って、当麻は研究室の最奥にしまわれてあったイタリア製のスーツ一式を取り出して来て、ネクタイまでぴしりと結んだあと、研究室を出た。
当麻が研究室に帰って来たのは、午後九時半だった。
右手に大きな紙袋を持っている。「伊勢丹」というロゴの入ったその紙袋を当麻は机の横に置いて水槽に近付いた。小さな『伸』が寄って来る。口をぱくぱくさせているところをみると、餌を要求しているらしかったが、当麻は無視して、すでにもう何かを成し遂げたと言うような鷹揚な笑みを『伸』に向けた。
「餌が欲しいんだろう?」
相手の心をやんわりとくるむようなやさしい声音だった。
『伸』はくるりと水槽を舞うと、翠の瞳を当麻に合わせた。
「もし、お前が明日、俺の前にヒトの姿で現れたら、その時に餌をやろう。」
それだけ言って、当麻は水槽に背を向けた。
買ってきた紙袋から、白く細長い紙箱を取り出した。蓋を開けるとそこには浅い鼠色の浴衣があった。数年前に伸の家に遊びに行ったときに、浴衣の着付けを教えてもらった。あまり興味のないこととはいえ、伸の教えてくれたことだったから、当麻は決して浴衣の着方を忘れてはいなかった。スーツを脱いでハンガーに架けて、適当なところにひっかけた。シャツも靴下も全て脱いで、浴衣の袖に手を通す。自分で着るのに少しばかり時間はかかったが、それでも伸が教えてくれた通りに帯も結ぶことができた。
その夜、当麻は浴衣のままソファに寝転がって眠った。
「……ま。えさ。とうま。……とうま。」
金平糖を転がしたような甘ったるい声がして、当麻は目だけを開いた。翠色が見えた。小さな『伸』、いや、それだったものが、当麻を覗き込んでいた。
当麻はうっそりと起き上がり、『それ』を眺めた。
……伸だ。
声には出さず大きく目を見開いて、驚きの表情を浮かべかけ……当麻は唇を引き締めた。喉の奥でくっくっと笑う。
思った通り、俺の言霊呪術は完璧じゃないか。そう、心の中で呟いて当麻は起き上がった。
ぴょん、と跳ねるように、『伸』が後ろに下がる。紅の帯がふわりと揺れた。
「『伸』、おはよう。」
返事はなかった。小さな頭を傾げて、当麻の口元を声に出さず真似た。それはまるでぱくぱくと、餌をねだっているようにも見えた。
「腹、減っただろう。」
やはり『伸』は応えない。ただ何か言いたげに唇を震わせて、当麻の目をじっと見つめている。
浴衣姿の当麻は、そのまま水槽の脇に置いてある銀色の餌袋を手に取ると『伸』に見せた。
「朝ご飯にしようか。」
当麻の目にこれまでずっと浮かんでいた獲物を狙うような鋭い光が消えていた。ただただ、深く相手を想うあたたかい眼差しがそこにあった。
当麻は餌袋から数粒の餌を手のひらに取り出して、『伸』の目の前に見せた。翠の目が、きらきらと期待に溢れる。
「いい子だ、伸。いいか? 俺の真似をしたら、朝ご飯だ。」
あやすように言って、当麻は自分の舌に餌を数粒乗せた。舌を突き出して『伸』の顔に近付ける。
『伸』はきょとんとして、何度か瞬きしてからそろそろと自分の舌を突き出した。当麻の舌がそのさくらいろの舌を絡めとる。舌越しに唾液を混ぜた餌を与えて、『伸』の中に侵入すると同時に、両手で薄い身体を抱き締めた。
冷たい身体だった。
驚いた『伸』が体を震わせて逃げようとあがいたが、頭一つの身長差ではかなわなかった。
『伸』の口の中を当麻の舌が這いずり回る。逃げる『伸』の舌を楽しむように追いながら、伸の唾液と自分のそれを混ぜ合わせて呑み込んだ。美味しい、と感じた当麻の舌の動きがさらに激しさを増す。舌で歯の一つ一つを舐めとりながら、人魚のくせに人間と同じ数の歯があるなと妙に冷静に思った。二人の唇の合わせ目からつうと銀色の糸がこぼれ落ちて研究室の床を汚した。口内で伸の舌の反応が鈍くなると、当麻はそのふくよかな唇をやわらかに噛んだ。少しずつ、味わうように一つ残さず食べ残さないように、丁寧に。
『伸』の喉の奥が鳴った。透明なくらい白かった頬が火傷したように朱に染まっている。目元にはうっすらと綺麗な水の粒が浮かんでいる。身体が震える度に、紅の帯がふわふわと揺れた。
『伸』を抱いていた当麻は、片手を離して、その紅の帯に手をかけた。きゅっと手に力をいれる。
……ああ、伸。今、ようやくお前を手に入れた。
実はうちで飼ってたランチュウが、今年の夏休みで天に召されてしまいまして、その手向けというか。雪国で越冬したとはいえ1年しか飼ってあげられなかったのがそれなりにショックで、生き物を飼うことの難しさを学びましたね。人間が近づくと水面まで顔を出したり、覗き込むと目の前をうろうろしたり、気が付くとろ過機の水流で遊んでたり、なかなかかわいい仕種を見せてくれました。もっと長生きさせてあげたかったな。伸が切なそうな顔をしているのは、もしかしたらうちのランチュウは構ってほしかったかな、という思いを込めて。(うーたん)
「水槽の中を泳ぐ金魚の伸」の絵の鉛筆ラフを昨年、うーたんさんから見せてもらって、ファンタジー脳の私はひどく気に入って「絵ができあがったら絶対に小説を書く!」と思っていました。その時は「当麻と金魚伸のほのぼのファンタジー」のはずだった……んですが(笑) どういうわけか、こんなお話に(汗 こんな当麻はやだーって言う方もいらっしゃあるかと思いますが、うっかり道を間違えちゃった当麻バージョン、ということで。(しかし、実はこれ、書いててすごく楽しかった! 遅筆の私が二日で書き上げちゃったのです)(篠原)

